知る人ぞ知るPRAKTICAR 50mm F1.4 MCは、1978年に発売されたCarl Zeiss Jena製大口径標準レンズです。その背景はなかなかに興味深く、当時、世界に進出していた日本の50mm F1.4に対抗すべく、同等のサイズで可能なかぎり製造コストを抑えることが目標だったようです。その詳細は貴重な内部資料とともに、以下のサイトで語られています。

zeissikonveb.de
Die Prakticare 1,4/50mm
https://zeissikonveb.de/start/objektive/normalobjektive/prakticar%25201%252C4.html

しかし、コンパクトかつ安価という要件を共産主義下の東ドイツで達成することは難しかったのか、50mmとしては異様なほど前玉を湾曲させたこのレンズは、トリウム含有硝材を使いながらも多大なるコマフレアを発生させたのでした。

トリウム含有硝材は黄変による製品寿命の低下に加え、製造時に内部被ばくのリスクがあるために、メーカーはさらなる再設計を推し進め、最終的にはトリウム含有硝材をはじめとした高価な高屈折率ガラスを使用しないコストダウンに成功しました。これが1982年に発売された後期型であり、このレンズの当初の目標はようやく達成されたと考えられます。


このPRAKTICAR 50mm F1.4 MCの特徴は、まん丸に湾曲した特異な前玉とマルチコート時代なのにハロが多いみずみずしい写りです。当然、こりゃおもしろい!と目を付けた自分はまずアトムレンズでない後期型を、そのあとにアトムレンズの前期型を手に入れ、まさにこの前期型の最短撮影距離の短さに満足していたのですが、つい、より良い状態のものがほしいという欲が出てしまったのです。

そうして、手に入れた新たな前期型は、どう見てもアトムレンズとは思えないスッカスカのクリアさなのでした。

こ……これはいったい…………? ( ゚Д゚) ?



考えられる理由は、以下のふたつ。

  1. 前の持ち主が黄変除去をおこなった
  2. トリウム含有硝材が使われていないイレギュラーな個体

もっとも可能性が高いのは1ですが、素直にそう思えないのはあまりにも内部の抜けが良すぎて、本来、紫外線照射後に残るはずの微妙なよどみ(透過率の低下)が感じられないことです。となると、2の解釈が妥当となり、アトムレンズでない前期型が存在することになりますが、当時の内部資料さえ入手できているWEBサイトにもそのことは触れられていません。この謎を解く手がかりは、鏡胴の刻印にあるのかもしれません。

いったん、情報を整理します。


PRAKTICAR 50mm F1.4 MC(前期型 アトムレンズ)
・鏡胴外周部にCARL ZEISS JENAの刻印、ピントリングのゴムは4段、8桁の製造番号、最短撮影距離は36cm

謎のPRAKTICAR 50mm F1.4 MC(前期型 アトムレンズではない?)
鏡胴外周部にaus JENAの刻印、ピントリングのゴムは4段、5桁の製造番号(逆向き)、最短撮影距離は36cm

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PRAKTICAR 50mm F1.4 MC(後期型)
・前玉周囲にCARL ZEISS JENAの刻印、ピントリングのゴムは3段、5桁の製造番号、最短撮影距離は40cm

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ここで注目に値するのは、製造番号の桁数の違いです。アトムレンズである前期型の8桁はCarl Zeiss Jenaが歴史的に採用してきたものと一貫性があります。しかし、これがなんらかの事情で変更され、後期型では5桁に減らされるのです。この後期型と同じ桁数で、具体的にはそれよりも若い番号が振られているのが謎の前期型で、もしかしたら、この個体はトリウム含有硝材を使用していない後期型のエレメントが先んじて組み込まれていたのかもしれません。

aus JENAの刻印は輸出仕様の証ですが、‟西側向けに特別な個体を割り当てた”という仮説も頭に残して話を先へ進めます。


……と、いうわけで………

白黒つけてやりましょう!! 線量計カモーン!! (屮゜Д゜)屮


ドンッ!!!
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ビビビビビビビ!!!
前期型(製造番号8桁)
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シーン………
前期型(製造番号5桁)
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これではっきりしました。アトムレンズである前期型は自室の自然放射線量のおよそ195倍、いっぽうの謎めいた前期型は自然放射線量とまったく変わらない数値です。(いちおう補足しますが、線量計の十字の真裏が検出器で、ここに後玉を密着させています)

結論: PRAKTICAR 50mm F1.4 MCには、アトムレンズでない前期型が存在する。

さらに、中古市場のPRAKTICARをくわしく調べたところ、製造番号5桁で黄変の見られない前期型は‟aus JENA”だけでなく‟CARL ZEISS JENA”の個体もあるようで、つまり、PRAKTICARの前期型は8桁ナンバーのアトムレンズから5桁ナンバーの非アトムレンズへ変わったあとに、後期型に移行したと考えられます。



*****

ようやくスッキリしたので、アトムレンズである8桁ナンバーに紫外線を当てて黄変を除去したあとに、5桁ナンバーとの描写の違いを確認してみようと思ったのですが………

なんと、このレンズ、ぜんぜん黄色味が抜けないんです!!


左: 製造番号8桁(紫外線照射前)  右: 製造番号5桁
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※左を右と同じ写りにするための補正値は [WB:-1250 露光量: +45]


左: 製造番号8桁(紫外線照射後)  右: 製造番号5桁
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※左を右と同じ写りにするための補正値は [WB:-900 露光量: +30]


これ、分解して黄変したエレメントに直接、紫外線を当てていないから効きが弱いんだと思われそうですが、同じように外側から紫外線を当てたGN TOPCOR M 50mm F1.4はここまで黄変がなくなるのです。しかも、このGN TOPCOR、描写の再確認のために入手し直したので、黄変除去にたいして時間をかけていない手抜きです。

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両者ともに分解なしでUV LEDライトを照射し、むしろ黄色味が頑固なPRAKTICARのほうは日光を当てる追加処理さえしているのに、この明確な差があるということは、トリウム含有硝材の組成に根本的な違いがあるといわざるをえません。実際にUV LEDライトを使ったときの反応も、PRAKTICARはわりと早い段階でまっ茶色が黄色っぽく変化し抜けが良くなるのですが、目視ですぐ分かるほどの色つきが残ったまま、そこで反応は止まってしまいます。

たしかに、以前、コメントを頂いた海上写真家さんはアトムレンズのPancolar 50mm F1.8(前期型)は黄変がだいぶ残るようなことを言っていたので、東独Zeiss Jenaのトリウム含有硝材はかなり独特な組成で性能を上げようとしたのかもしれません。

zeissikonveb.de
Die Prakticare 1,4/50mm
私の研究が正しければ、ヘビークラウンSSK11は、1950年代の終わりにVEB JENA ガラス工房で行われたWerner VogelsとWolfgang Heindorfによる関連研究から生まれたホウケイ酸ガラスです[1959年6月26日のGDR特許第22.535号]。三酸化ホウ素、三酸化ランタン、フッ化カドミウムに加えて、これらのガラスには約20パーセントの二酸化トリウムも含まれています。

このなかで怪しいのはフッ化カドミウム(CdF2)で、以前研究したトリウム含有硝材の具体的な組成の例にその名はありませんでした。この化合物がなんらかの形で黄色化を強めているのでしょうか??



*****

満足な黄変除去はできなかったので、いつもの比較は後処理でWBと明るさをそろえて残存収差の違いだけを見てみたいと思います。これで描写が違えば、前期型の5桁ナンバーは後期型のエレメントが先んじて組み込まれていた仮説が成り立つことになります。


最初の画像がPRAKTICAR 50mm F1.4 MC(前期型8桁ナンバー)、後の画像がPRAKTICAR 50mm F1.4 MC(前期型5桁ナンバー)ですべて共通。

注記なければ絞り開放 絞り優先AEで設定固定、WBは5200kから大雑把に調整
Photoshop Camera RAWの現像設定はα7でEOSのスタンダードを模したプロファイル

アトムレンズである前期型8桁ナンバーには強い黄変が残っているので、手動でWBと明るさを合わせる。


設計の違いを知るためには絞り開放のボケ描写を比べるのが手っ取り早いです。
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写る範囲はほぼ同じ、絵のズレはマウントアダプターが原因です。
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中央の丸ボケは製造番号8桁のほうが輪郭線が強く、周辺部は製造番号5桁のほうが強いです。
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ボケ量の差が左右で違うので、どうやら、どちらかの個体に像面の傾きがあるようです。
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絞りF2.8
アトムレンズの強い黄変はWB補正後の階調再現を狂わせますが、それはあくまで正常なレンズと比較した場合にのみ感じられる微妙な話です。
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丸ボケの状態と同じく、中央のにじみが多いのが製造番号8桁、周辺部のにじみが多いのが製造番号5桁のようです。
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ゴーストの出方が違いますが、これは二度三度、撮影を繰り返しても同じでした。ということは、レンズ構成が完全に同一ではないことが推察されます。
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結論です。

PRAKTICAR 50mm F1.4 MCの前期型8桁ナンバーと5桁ナンバーはほぼ同じ描写といえ、その差は微小なマイナーチェンジ程度です。具体的には実効焦点距離、歪曲は同じ、周辺減光は黄変による透過率の減少があるのでなんとも言えませんが明確な差は感じられず。ごくわずかに違うのは二線ボケとフレアっぽさで、5桁ナンバーは8桁ナンバーよりも画面中央の描写が良くなっている代わりに周辺部の収差フレアが増し、二線ボケがより強くなっています。

この比較の過程で、どちらかの個体に像面の傾きがあることが判明しましたが、それを含めても全体の画質はとてもよく似ていて、トリウム含有硝材が廃された5桁ナンバーはその分、8桁ナンバーよりも描写が悪くなったとも良くなったともいえません。過去にさんざん厳密比較を行ってきた自分の感覚に照らし合わせると、この5桁ナンバーは設計変更がありながらもできるだけ同じ画質を保つように綿密に調整されたレンズであり、わずかな収差バランスの変化はこのような比較を行わないと認識できない程度のものです。


果たして、この前期型5桁ナンバーの設計が鏡胴の変更された後期型と同じものなのでしょうか?

―――これが驚きの答えとなるのです。


同じ非アトムレンズながら、前期型5桁ナンバーの描写は後期型の描写とも違います。

もうすでに後期型は手放してしまったので証明はできないのですが(※Planarとの比較は行ったので画質は完全につかんでいます)、PRAKTICAR 50mm F1.4 MCは前期/後期で画質が違い、若干、描写の癖が減少しているのが後期型なのです。実際に、後期型を使ったあとに前期型を手に入れた自分は、あれ?と首を傾げましたし、その理由は球面収差曲線の違いとして最初から冒頭のWEBサイトに示されていました。

zeissikonveb.de
Die Prakticare 1,4/50mm
https://zeissikonveb.de/start/objektive/normalobjektive/prakticar%25201%252C4.html

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※左から、球面収差、非点収差、歪曲収差

この収差図は左(前期型)と右(後期型)でほとんど変わりませんが、球面収差の過剰補正量だけは後期型のほうが少なくなっているのです。これにより、画面全体の光のにじみ、二線ボケの強さが抑えられ、より理想に近づいたPRAKTICARはようやく、サイズ/性能/コスト面で日本製50mm F1.4に比類しうるものとなったのです。この前期/後期の画質差は、両者を使い分けていれば直感で認識できるはずです。


つまり……

PRAKTICAR 50mm F1.4 MCは、まずトリウム含有硝材を使った前期型が8桁ナンバーで発売され、その後、トリウム含有硝材の置き換えを優先した5桁ナンバーにマイナーチェンジ、さらに設計を見直しコストダウンに成功した後期型5桁ナンバーは画質の改善も実現していた、ということです。

【PRAKTICAR 50mm F1.4 MCの各仕様】
  • 前期型 製造番号8桁 アトムレンズ 最短36cm
  • 前期型 製造番号5桁(逆向き) 非アトムレンズ 最短36cm 画質はほぼ同じ
  • 後期型 製造番号5桁 鏡胴変更 非アトムレンズ 最短40cm 画質は改良あり
※上記に加え、西側向けのaus JENA刻印がある。
※後期型にはPRAKTICAR銘をPだけにしたものがあるが、その意味は不明。(製造番号から見ると、Pのあとにも通常モデルが確認できるので最後期型とも言い難い)

このまとめは、情報の少ない旧東ドイツ末期の状況を考えるとサンプル数があまりにも不十分で、信憑性が危ういものです。しかし、トリウム含有硝材を使用せず性能を維持したままコストダウンするという難問をクリアした後期型が発売されるまでに23種もの再設計が行われたことを考えると、その間の何番目かの設計を採用し、暫定的に前期型をマイナーチェンジした(それだけ非アトムレンズ化が急務だった)という解釈は、あながち不自然ではないのかもしれません。

zeissikonveb.de
Die Prakticare 1,4/50mm
https://zeissikonveb.de/start/objektive/normalobjektive/prakticar%25201%252C4.html

以下に、1982年6月1日からの低コストでトリウムを含まない23番目のバリアントを示します。これは、Prakticar 1.4 / 50mmの2番目のバージョンでまさにこの形式で実装されました。

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話がややこしくなるので、あえて注目してこなかった逆向きの製造番号(マウント面に対し、外向きの刻印)ですが、後期型にも通じる5桁ナンバー自体は他のPRAKTICARレンズにも関連性があるもので、この時期のレンズの組み立て工程に変更があった可能性があります。その中でも逆向きの製造番号は、後期型とも違う非アトムレンズである前期型5桁ナンバーの特異性を示しているようにも思えますが、メーカーの意図を裏づける材料はありません。


最後に、このPRAKTICAR 50mm F1.4 MCの前期型を体感した方はわかると思いますが、トリウム含有硝材は優れた光学定数を持つ硝材のひとつに過ぎず、これを使えば必ずしも高性能なレンズができあがるわけではありません。そのあたり、当時の東ドイツの苦しさをのぞかせるPRAKTICARの個性的な味わいを解説するのは、またつぎの機会にしましょう。