最初に警告します!! 

今回、化学反応に関する分野を扱うので、素人の半端理解ではひじょ~に心もとない解説になります。なので、けっこう詳しく書いてあるように見えますが、これを安易に鵜呑みにせず、正確さの怪しい記述については、ヒラに、ヒラにご容赦願います。 <(_ _)> <(_ _)> <(_ _)>


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アトムレンズ――すなわち、放射線を発するトリウム含有硝材を使った写真用レンズが、なぜ存在するのかは以下の文章がとてもわかりやすく説明しています。

Radioactive Consumer Products
Thoriated Camera Lens (ca. 1970s)
http://www.orau.org/ptp/collection/consumer%20products/consumer.htm

光学レンズの設計では、屈折率の高いガラスを使用することが望ましい場合がよくあります。屈折率が大きいほど、光の曲がりが大きくなります。これにより、ガラスの必要な曲率が減少するため、レンズを薄く、軽くすることができます。残念ながら、屈折率の高いガラスは分散も大きくなる可能性があります。ガラスにトリウムを追加することにより、低い分散を維持しながら高い屈折率(1.6を超える)を達成できます。

1939年にトリウムを含む光学ガラスに関するいくつかの特許が発行されましたが、それらはやや一般的な性質のものでした。その後、1949年にコダックのPaul De Paolisに、そのようなガラスのいくつかの特定の配合を含む特許が発行されました。重量式の1つは次のとおりです。ホウ素36%、ランタン12%、トリウム12%、バリウム20%、カルシウム20%、その後の製剤には最大28%の酸化トリウムが含まれていました。

つまり、トリウム含有硝材は高屈折低分散であり、一般的な光学ガラスの性質である高屈折/高分散、低屈折/低分散とは異なるものである、と言っているわけです。実はこれ、以前、引用した内容とはすこし違っていることにお気づきでしょうか? (※ガラスの分散=波長による屈折率の違いで、これが少ないと色収差の補正に有利)

英語の元文を自分で機械翻訳にかけてみて分かったんですが、ウランガラス同好会HPで訳されている文章は重要な部分が端折られており、光学ガラスを語る際の複雑なニュアンスが伝わらなくなっているのです。

光学ガラスの組成物としての酸化トリウムの価値は、分散を抑えながら高い屈折率を得ることのできる安定性に優れているからで(※1)この説明も我々素人が勝手に思いこんでいる、トリウムを入れたからばんばん硝材の性能が良くなるんだ!みたいなものとはずいぶん違います。やはり、化学を単純に語るなかれ。

(*1 光学ガラスはより優れた特性を目指すほどに溶解/冷却時の扱いが難しくなり、均質透明なガラスにならず結晶化してしまうリスクが増す。こういった問題に対し、有効性が高かったのが酸化トリウム)


ここで、いきなりトリウム含有硝材の詳しい話を始めても一般の方にはちんぷんかんぷんだと思うので、光学ガラスについての概略を置いておきます。

光学ガラスとは? ――レンズやプリズムに使われるガラスで、他のガラスと異なり光学的に均質であるというのがその特徴である。


【旧ガラス】1800年代に作られた最初の光学ガラス。
【新ガラス】1886年頃にSchottのガラス工場が開発し、ドイツを中心に発展していったより多様な光学ガラス。わりあい高屈折で低分散な硝材もある。

【新種ガラス】1939年、アメリカのJ.W.Moreyによって発明されたランタン、トリウム、タンタルなどこれまで溶解が難しかった希元素を取り入れた光学ガラス。さらなる屈折率の向上とともに高屈折低分散特性の際立った硝材ができ、1950年代から始まる写真レンズの高性能化、大口径化に役立つ。

これら200種以上存在する光学ガラスがさまざまな設計によって組み合わされ、写真レンズとして製造販売されている。(※現在は有害物質の排除とともにかなりの硝種が削減)


参考文献:「光学ガラス」 泉谷徹郎 著 共立出版株式会社


では、実際にトリウム含有硝材がどの程度、高屈折低分散なのかを見てみます。先頭のndが屈折率で、その次のvdがアッベ数(数字が大きいほど低分散)。一般に高い屈折率に寄与するのが酸化バリウム(BaO)、酸化鉛(PbO)、酸化ランタン(La2O3)ということを踏まえると、酸化トリウム(ThO2)の影響度合いがイメージできると思います。


a) 酸化チタン(TiO2) ※トリウム未使用。
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b) 酸化トリウム(ThO2)
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c) 酸化ランタン(La2O3) ※トリウム使用は二段目まで。
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あくまで1957年の一例ですが、これを見るとたしかにトリウム含有硝材の特徴は高屈折低分散というバランスにあるようで、屈折率(nd)は最高値でないにしろ、アッベ数(vd)が他より抜きんでていることが印象的です。しかし、トリウム含有硝材を使わずとも高い性能が達成されていった近代のレンズをかえりみるに、酸化トリウムだけがレンズ設計に有利な組成物ではないということは押さえておきたい部分です。(例えば、新種ガラスの中でもっとも重要なのは酸化ランタン)

e) 酸化ストロンチウム(SrO2) ※トリウム使用は二段目のみ。
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酸化トリウムの避けがたい難点は、言うまでもなく放射線による公害問題です。たとえば、ライカは最初期のSummicron 50mm F2でトリウム含有硝材を使い、これまでとは一線を画す性能を実現しましたが、当初より工員の健康被害を憂慮し、硝材の置き換えを計画していたそうです。(※情報元は失念)

西側のツァイスも同様に、現在判明しているものでアトムレンズは中判用のTessar 80mm F2.8のみ、しかし、東側のツァイスイエナでは共産圏の不自由さが災いしたのか、性能の必要なレンズではトリウム含有硝材に頼らざるを得なかったようです。また、コダックの本数が比較的多いのは、最初にトリウム含有硝材の特許を取得したことによる積極展開なのかもしれません。

Camerapedia WIKI
Radioactive lenses(アトムレンズ一覧)

一方、日本のメーカーは、1970年代までアトムレンズを製造し続けていました。その種類は各社のラインナップから考えると決して多くはなく、モデルによってはごく短期間のみだったようですが、しかし、性能が求められるF1.2やF1.4のみならず普及型の50mm F1.8にまでアトムレンズが存在するのはなぜでしょうか? それは、酸化トリウムが酸化ランタンなどをはじめとする他の希土類元素よりも低コストだったという説があるからです。


b) 酸化トリウム
ThO2は原料の面よりみると後述するLa2O3と同様にモナズ石が主原料で, ThO2の含有量は産地によって異なるが3~18%である.原料は酸またはアルカリ分解後,濃度を弱めて行くことにより容易に他の稀土類元素と分離が出来,精製も簡単で,高純度のものを得ることが出来る.

このことにずばり言及したインターネット上の資料があるのですが、著作権に疑問が浮かぶものなので引用は控えておきます。しかし、費用対効果において酸化トリウムが有用であったのなら、厳しいコスト制限に縛られた日本のメーカーが高価なレンズから比較的安価なレンズまで幅広くトリウム含有硝材を使用していたのは腑に落ちます。ただし、そこで勘違いしてはいけないのは、トリウムを含んだ新種ガラスは高価であるという文言も見かけることで、おそらく、硝材に添加する他の組成物にコストをかければ当然、その硝材は高くなるということではないでしょうか。

  • アトムレンズとは酸化トリウムという放射性物質を含んだ硝材が一部に使われたレンズ
  • その硝材は高屈折ながら低分散という特徴をもつが、数値性能は硝材の組成による
  • 酸化トリウムは他の希土類元素に比べれば価格が安く、限られたコストの中で性能を上げるのに有用らしい
  • しかし、当然ながら硝材のコストは他の組成物次第
  • 経年による黄変をどの段階でメーカーが認識したのかは資料が見つからず
    (もしかしたら、製造後に黄変となるまでにはかなりの年数が必要?)

こんなところで、アトムレンズについて具体的なイメージが固まったと思いますが、実際にトリウム含有硝材がどれほど性能に寄与しているのかをいつもの比較で確かめてみたいと思います。

ここでとりあげるのは、RE GN TOPCOR M 50mm F1.4。その発売は1973年、マルチコーティングとともに各社の標準レンズが現代的な写りを獲得していく時代に製造されたアトムレンズとは?



最初の画像がRE GN TOPCOR M 50mm F1.4、後の画像がPlanar 50mm F1.4 AEJですべて共通。

注記なければ絞り開放 マニュアル/絞り優先AEで設定固定、WBは5200kから大雑把に調整
Photoshop Camera RAWの現像設定はα7でEOSのスタンダードを模したプロファイル

※LED UVライトを使って、段階的に黄変除去した画像を載せています。


【黄変: 大】
ホワイトバランスはPlanarで合わせています。明るさの個別調整をしていないので、これが黄変したレンズと正常なレンズの素の違いとなります。GN TOPCORは黄変のにごりにより、同じ開放F値としてはありえないほどの濃度差が出ています。
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強いアンバーかぶりだけでなく、露出固定でこれだけの明るさの差が出てしまうのがアトムレンズの黄変です。
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【黄変: 中】
紫外線照射の途中です。GN TOPCORの色かぶりはたっぷり濃厚ではなくなりましたが、まだ黄変は取りきれていません。レンズの透明度は増し、Planarとの濃度差はだいぶ減っています。

アトムレンズの黄変除去 RE GN TOPCOR M 50mm F1.4

絞りF4
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絞りF4
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【黄変: 最小】
たっぷりと紫外線照射をおこなったため、黄変による黄色味は通常のレンズでも見られる程度、ガラスの透明度はほんのわずかだけ抜けの悪さが残りました。とはいっても、露出差はわずか1/3段未満です。
※ここから精密比較を行うために後処理で明るさを合わせています。

絞りF8
絞ったときの解像力は隅まで差が見えません。黄変のよどみが完全に取りきれていないせいか、階調は微妙にそろいません。
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基本的には二線ボケしますが、近接時の収差変動が少ないのか?、寄ってもあまりボケの輪郭はやわらかくなりません。
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本来は絞るべき場面です。絞り開放かつ全体に強い光が当たっているので、過剰補正型のフレアっぽさが強調されています。
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端のボケ量が違うのはPlanarよりも周辺減光が大きいのが原因です。
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二線ボケ、周辺のボケ量の少なさで、背景の存在感が強いのがGN TOPCORです。
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基本的な画質はよく似ていますが、周辺減光だけは明確な違い。
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絞りF5.6
歪曲も同じ程度。画角は微妙にGN TOPCORが広いです。
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Planarは-2.0%付近の樽型歪曲。近接時に直線物を撮るとぐんにゃり歪みます。
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逆光では細部がにじんで古めかしい感じ。拡大してみると、色収差はGN TOPCORのほうがやや良好。
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像面湾曲が若干違うので、Planarとのピントの入り方の違いがでています。
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絞りF8
絞り込めば両者ともに文句なし。
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古いレンズには厳しい距離感ですが、ボケは安定しています。ただし、端の方ではコマ収差による丸ボケの変形も。
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最新の後ボケ重視設計でないかぎり、このような距離感でボケが硬くなるのは普通です。
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絞りF2.8
絞り込むとほぼ同じ画質ですが、周辺光量の差は残っています。
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絞りF4
鏡筒内に反射要因があるのか、ときおり、明確な軟調化が起こります。
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前ボケのやわらかさは過剰補正型の特徴です。黄変をできるだけ取りのぞいているので、WB補正をすればPlanarとほぼ同じ色がでてきます。
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絞りF4
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どちらかの絞り羽根が正確でないのか、F4ではPlanarのほうが被写界深度が深いです。
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1960年代のレンズではこういったボケがざわつきますが、GN TOPCORは次の世代なので大丈夫。
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ここまで寄るとさすがに背景はきれいな拡散ですが、四隅のボケに口径食の差が見えます。
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球面収差による二線ボケ、端はコマ収差による外向きのとがり、周辺減光によるボケの小ささがあります。
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逆光耐性はGN TOPCORの方が低そうですが、Planarも完璧ではありません。
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アトムレンズは高性能か?

この命題に多少の味付けの違いをはぶいて答えるなら、やはりトリウム含有硝材を使えば無条件に高性能になるわけではなく、大事なのは全体設計すなわち、そのレンズがどれだけコストをかけられるかにかかっている、という結論です。

もっと簡単にいうなら、同時代に同じ7枚構成の変形ガウスで、トリウムを使ったRE GN TOPCOR M 50mm F1.4よりもトリウムを使っていないPlanar 50mm F1.4 AEJのほうが性能が上。


具体的には、両者は像面がわりあい平坦で背景のグルグルやざわざわは目立たず、歪曲は同程度ととてもよく似た描写ながら、GN TOPCORのほうが周辺減光が多く、画面端の丸ボケにコマ収差の影響がやや目につきます。特に周辺減光はそれを意図的に増やすことによって点像を乱す有害光線を切るという手法があり(※その代わりボケのレモン形状が強まる)、GN TOPCORが限られたコストの中で全体性能を上げようとした設計意図が透けて見えます。これに対し、Planarの周辺光量は比較的豊富かつ周辺画質はGN TOPCORに遜色ないことから、Carl Zeissというブランド力に支えられたPlanarの贅沢さがよくわかります。

この両者の違いに、味付けという要素を加味してみるとどうでしょうか? 

絞り開放の画質を決定している球面収差はGN TOPCORは過剰補正、Planarが完全補正で、一般的な優劣で判断するならGN TOPCORはF1.4でピント面に光のにじみや二線ボケが発生してしまう旧式の設計であり、これもPlanarが優れていることになります。ただし、過剰補正型のにじみは1段程度の絞り込みで消えるとともに解像線が細くなるメリットもあるので、この点についてはよほど過剰補正量が大きくないかぎりは設計思想の違いと解釈してよいでしょう。そのような観点から、GN TOPCORの球面収差は味として許容範囲に思えますが、国産各社の次のモデルではPlanarに迫るほどの収差補正をおこなっているものもあることは注記しておきたいです。(※New FD50mm F1.4など)


【画面右半分】
左: RE GN M Topcor 50mm F1.4  右: Planar 50mm F1.4 AEJ
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GN TOPCORの周辺減光の強さ、ピント面のもわっとした感じ、微妙な被写界深度の違いなどがよくわかります。


このように、Planar 50mm F1.4 AEJと似た写りながら、細部で劣るRE GN M Topcor 50mm F1.4はトリウム含有硝材を使ってなお、性能がいまいちなレンズなのでしょうか? それも正しくはありません。

アサヒカメラによって計測された非点収差、像面湾曲はPlanarよりも一段上の補正といえ、解像力は同等、色収差補正はわずかですが有利、ほんのあと少しの部分が足りていないだけともいえます。その数値性能、収差補正は同時代の50mm F1.4の中で最高レベルではないにしろ優良な部類に入り、コストを抑えながらも性能を出すことのできるトリウム含有硝材の利点は十二分に発揮されているのではと思います。

結局のところ、高屈折低分散という特性に秀でているトリウム含有硝材も、どのような設計で生かされているのか?というごく当たり前の視点が大事であり、アトムレンズ=高性能という決めつけは早計であるということですね。

たとえば、最初期のSummicron 50mm F2が1950年代当時の最高性能を実現するために。またあるときは、国産のF1.2クラスがその明るさと性能を両立させるために。さらには、比較的価格の安いレンズが限られたコストのなかで性能を上げるために。

このように、さまざまな役割を果たしてきたトリウム含有硝材は、しかし放射線による公害問題によって早い段階から代替となる設計が研究され、アサヒカメラで記録的な解像力を計測したSummicron 50mm F2は再設計されたトリウム未使用の個体です。とはいえ、高屈折低分散ガラスを生成するのに有利なその物性は各種の専門解説で他に代えがたいとも語られており、酸化トリウムは光学ガラスの分野において特別な存在だったことは間違いないのでしょう。

産業技術資料データベース
高屈折率・超低分散光学ガラスS-YGH52

S-YGH52は、屈折率nd1.78650/アッベ数νd50.0の高屈折率・超低分散ガラスで、酸化トリウムを含まない組成での量産品はオハラ以外には存在しない。1970年頃から光学ガラス製造各社はトリウムフリ-ガラスを開発していたが、高屈折率/低分散ガラス領域では安定したガラス取得が困難であった。その中でも特にS-YGH52は最も困難であったが、安定組成を開発して量産ガラスを製造販売した。


【RE GN TOPCOR M 50mm F1.4とPlanar 50mm F1.4 AEJの違い】

コントラスト ほぼ同等

解像力  GN TOPCOR≒Planar
ボケ  Planar>GN TOPCOR
歪曲補正  GN TOPCOR≒Planar
周辺光量  Planar>GN TOPCOR

逆光性能  Planar>GN TOPCOR
画角の正確さ  GN TOPCOR>Planar
絞り羽根  GN TOPCORは6枚 Planarは6枚でギザギザ
最短撮影距離  GN TOPCORは40cm Planarは45cm


専門的な話ばかり続いたので、最後はいつものようにやわらかい解説でまとめておきます。

GN TOPCORはおおざっぱにはPlanarを二線ボケにして、周辺減光を強めた描写と考えればほぼ間違いありません。同時期のレンズとしてはFD50mm F1.4ほどのピーキーさ(頭抜けた解像力、広範囲の周辺減光)はなく、そのかわりに無難なまとまりの良さを保っています。写りのポイントとしては、寄っても二線ボケがやわらかくならず、解像線ににじみあり(*2)、黄変の影響が少なからずあることです。

(*2 アサヒカメラの測定データにそぐわないもわっとした感じは個体差による偏心コマと想像していましたが、どうやら他の個体も普通に同じようです)


残念ながら、GN TOPCORからかつてのTopcorの繊細な味わいは消えてしまいましたが、それはマルチコート化され、性能の上がったレンズには望むべくもありません。もとより、1980~90年代のレンズに混じればPlanarでさえ見分けがつきにくいのですから。

ただし、GN TOPCORのモノとしての存在感は他社よりも抜きんでていて、Exaktaの狭いマウントで実現した50mm F1.4という珍しさに、62mm径の重厚な金属鏡胴、GN仕様に由来したピントリングの独特な操作感など、トプコンの個性は最後まで生き続けていたと言えるでしょう。

レンズ探求 #30 RE GN TOPCOR M 50mm F1.4の再評価