すくなくとも当時を知る人間として、CONTAX Nシステムの失敗理由、京セラCONTAXの終焉などを一個人の視点から語ってみたいと思います。一個人の視点とは言いながらも、全体の空気を語っている愚かさもありますが、そのあたりは多少のご容赦をいただくことにしまして、まずはここから。



1、YASHICA/CONTAX 90年代の行き詰まりとAF化


90年代のCONTAXはおそらくボディ開発が一番充実していた時期です。1990年のフラッグシップ、RTS IIIを皮切りにそのサブカメラとしたSTと機械カメラのS2を1992年に、1994年にはAFの前身であるフォーカスエイド機能を備えたRX、その二年後にボディ内AFを実現したAX、さらに1998年にはライト層への間口を広げた小型軽量のAriaと、今振り返れば二年ごとになにかしらの新コンセプトを備えたカメラを発売している本気具合でした。しかも、その合間にはAFレンジファインダーカメラのG1G2を新規開発しながら高級コンパクトのTシリーズ(T2、TVS、TVSII、Tix、TVSIII)というまったくの別ラインを展開しているという呆れ様です。

たしかに、この時期はDPEのスピード仕上げによる写真需要の高まりと、カメラ/フィルムの性能向上が写真ブームへと繋がって、京セラの攻めの姿勢は市場の盛況と合致していました。ただ、その一方で新規のMFレンズは従来の焦点距離の穴を埋めるDistagon 21mm F2.8や特殊レンズのApo-Sonnar 200mm F2、Mirotar 500m F8などの追加程度でラインナップの維持は変わらず、すでに90年代末期には古いながらもいまだに色褪せないレンズという評価がちらほらと聞こえ始めているほどでした。そこへとどめを刺したのが次世代のCONTAX 645/Nシステムの発表で、京セラのボディ開発は結局は新型AFカメラへと集約される道筋だったのです。あるムック本では、90年代、CONTAX MFレンズのラインナップはすでに完成していたので次を模索していたと京セラ社内の声が語られています。

ボディは次の技術へ繋げるために野心的に、レンズは旧態依然としたままで。そんな流れの中、中判の645からデジタルカメラの連携まで視野に入れたCONTAX Nシステムが発売されるのです。


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2、CONTAX Nシステムのあやまち


90年代後半は、カメラの自動化はどうあるべきか?というメーカー各社の模索にひと区切りがついた時期でした。要/不要が明確になった機能や操作系、改良が進んだ分割測光、使いやすさが増したズームレンズ、そんな流れの中でPENTAX MZ-5というダイヤル操作を復活させたAFカメラも生まれ、そのコンセプトはPENTAX 645NやMINOLTAのα9、はたまた現代のデジタルカメラにまで受け継がれることになります。

MFカメラのわかりやすさとAFカメラの便利さの融合――CONTAX Nシステムが目指したのもまさにそこでした。まるでEOSと張りあうような大口径完全電子マウントは、しかしながらAF速度などは売りにせず、常時マニュアルフォーカスが可能なピントリングの操作性にこだわり、その結果、Nレンズは光学系のサイズとは無関係な外径の太さとなってしまうのです。まず、ここが新規ユーザー獲得のための最初の障壁で、開放F値や焦点距離に特別さはなにもないのに、他社製品よりもふた回りほど大きくなってしまった交換レンズ群……。

のちの雑誌記事でこんなことがつぶやかれていました。CONTAX 645のレンズはN1に着くのに、N1のレンズは645に着かない。これはもちろん冗談交じりの皮肉ですが、他社へ目を移せばF2.8ズーム+テレコンや高倍率ズーム、はたまた軽快な小型レンズなども選び放題で、その上、京セラが志したテレセン性への配慮などはこの時点では効果が体感できないとあっては、Nレンズの大きさは過剰にしか見えないというのが当時のカメラファンの感想だと思います。


“写真はレンズで決まる”――RTS時代のキャッチコピーを受け継ぎながら巨大化したNレンズは、しかし、ここで旧来のCONTAXユーザーを裏切る間違いを犯すのです。

90年代、矢継ぎ早に発売されるCONTAXボディの躍進がありながら、システム全体に停滞感をもたらしたのはライバルとなるAFカメラの目覚ましい進歩です。高級MFカメラという特別な立ち位置で成立していたCONTAXが、もう写真撮影の便利さから勝負にならない……。これはLEICAが先立って直面していた苦渋であり、日本の便利カメラが世界を席巻した流れの終着点ともいえるかもしれません。

しかし、LEICAとCONTAXは根本的に違う道を進むのです。冬の時期を耐えて耐えて、のちにさらなるハイブランドとして独自の価値で息を吹きかえすLEICAと、正直にコストダウンを押し進めた結果、CANONやNIKONと競合する位置に立ってしまったCONTAX Nシステム。もちろん、京セラの内部事情として、従来の質感重視では商売が成り立たなくなってきたからこその方針転換でしょうが、CONTAX Nレンズとボディを手に取って、これを他社より特別だと思える人はごくわずかでしょう。道具の選択基準としては不純ですが、デジタル時代の今でもCONTAXが特別に持て囃されるのは、つくりの高級感が大きな要因になっていることは間違いありません。

以上は、つつみ隠さずCONTAXユーザーのミーハーな一面を告白したわけですが、実際にはもっと重大な問題がNシステムにはあったのです。それはつまり、ズーム主体のレンズラインナップ。


【N1と同時発売】
Vario-Sonnar 24-85mm F3.5-4.5
Vario-Sonnar 70-300mm F4-5.6
Planar 50mm F1.4

【あとから追加】
Vario-Sonnar 17-35mm F2.8
Vario-Sonnar 28-80mm F3.5-5.6
Vario-Sonnar 70-200mm F3.5-4.5
Planar 85mm F1.4
Makro-Sonnar 100mm F2.8(当初の予定はMakro-Planar)
Tele-Apotessar 400mm F4


まるで、ズームのサブに単焦点を使ってくださいといわんばかりの面白味のないレンズばかりで、これが完全に旧CONTAXユーザーの気持ちをはなれさせました。こうなってしまった理由は、当時、カメラ界の主流が圧倒的にズームレンズだったことに加え、急いで単焦点をそろえなくてもCONTAX 645のレンズ群が流用できたからかもしれません。さらに追い打ちをかけるのが、わざわざ買い換える理由にもならないPlanar 50mmの変わらなさ、世間のPlanar信仰を見事に裏切るMakro-PlanarからMakro-Sonnarへの設計変更、まるで意味不明なTele-Apotessar 400mmの発売、いつの時代だと首を傾げるほどの中途半端なズームのF値……。

もしかしたら、当時の京セラにはこれが精いっぱいだったのかもしれませんが、それにしても夢のないレンズ群です。こんなに夢がないならEOSでかまわないじゃないか、あからさまに口には出しませんでしたが、様子見をしながら、心の中では素晴らしいラインナップの完成を待ち望んでいた旧ユーザーのNシステムに関する本音はこんなところでしょう。

心躍るレンズはなく、外装のコストダウンは進み、頼みの綱となるズームレンズもほとんどが他社より劣るスペックである――Nシステムの不人気は必然だったといえるでしょう。



3、デジタル時代の荒波、そしてCONTAX終焉へ


迷走ともいえる大きな失敗はフルサイズ 600万画素のN DIGITALでした。初代RTSの電磁レリーズにはじまるCONTAXの先進性は、N1の黄金比率測距点やフォーカスブラケットにいたるまで意欲的に継続されてきましたが、その姿勢をデジタルカメラというまだまだ先の見えない分野でおこなってしまったのがそもそもの間違いでした。N DIGITALの完成度についてはコメントできませんが、レンズラインナップがまるで整っていないのに80万ものフルサイズカメラを発売する無謀さ、入り口となる中級~普及価格帯のデジタルカメラを無視したこと、これによって完全にNシステムは首が締まったと思います。同じように、苦しい商売で踏ん張っていたKONICA MINOLTAやPENTAXが過去の資産を生かしながら、APS-Cで地道にユーザーの期待にこたえようとしていたのとは対照的に。

フランジバックの長さから旧CONTAXレンズを活用することもできず、完全に切り捨てた過去のシステムに後戻りすることもできない。京セラはまさに八方塞がりとなりながら、デジタルの熾烈な開発競争に置き去りにされていきました。


一方、Nシステムと対になるはずのCONTAX 645はその写りの良さからプロの間でじわじわと市民権を獲得しつつあるようでした。発売と同時にいっきにシステムを完成させた645はユーザーに将来の不安を与えるようなものではなかったのです。プラボディのカメラ本体はともかく、レンズの質感は旧CONTAXそのままでAF可能、見えの良い最新型のアイレベルファインダーにポラバック、オプションのウェストレベルファインダー、バキューム機能付フィルムインサート、ハッセルアダプター、ティルトシフトベローズといたれり尽くせりです。

そんなCONTAX 645もある時、突然、京セラのカメラ事業終了の発表とともにすべてが打ち切られるのです。それはなぜか? 推測の域をでませんがEUが発したRoHS指令がからんでいるのではないかと思います。


中小企業基盤整備機構ウェブサイト
ここが知りたいRoHS指令
電子・電気部品に関する欧州の環境規制(RoHS指令)について紹介
http://j-net21.smrj.go.jp/well/rohs/basic/


RoHS指令はWEEE指令と表裏一体の関係にあり、WEEE指令と同時に2003年2月13日にEU*の官報に告示されました。

まず、WEEE指令とは、廃電気・電子機器を予防(削減)するため、最終処分量を減らすことを目標に電気・電子機器の再使用、構成部品などの再生、リサイクルを推進する要求になっています。

一方、RoHS指令は、WEEE指令による廃電気・電子機器のリサイクルを容易にするため、また、最終的に埋立てや焼却処分されるときに、ヒトと環境に影響を与えないように電気・電子機器に有害物質を非含有とさせることを目的として制定されています。


2006年7月1日以降は、次の6物質群を含有する製品は上市(販売)できません。

  • 水銀
  • カドミウム
  • 6価クロム
  • PBB(ポリ臭化ビフェニル)
  • PBDE(ポリ臭化ジフェニルエーテル)

RoHS指令はEUが定めた環境規制であり、そのなかには写真レンズと縁深い鉛が含まれています。結果、写真界がどうなったかは、カメラ販売業者のグチとして以下の記事でつづられています。

カメラの八百富
「鉛入りガラス」と「エコガラス」
https://www.yaotomi.co.jp/blog/used/2010/01/post-28.html

まあ、この規制のせいでこの業界大きく変わりました。

これが理由で無くなった製品が沢山あります。
例えば、有名なところでFM3A。

ペンタプリズムは鉛ガラス、エコガラス化で大きさが変わればトップカバーが変わります。
鉛はガラスだけでなく、塗料にも含まれていますから、裏ブタすらそのまま使うわけにはいきません。
その他、使用している部品、一点一点の材料評価が必要となり、追加生産しようと思うといちから設計変更が必要となります。
そりゃ、いまさら無理ですよね?もうそう売れるわけではない商品に、そこまで投資できません。

さらに、ニコンさんはRoHS指令を契機に、環境対応にシフト。
「鉛レス」化を社是にしてしまいました。
これで、マニュアルフォーカスのレンズから、例えばF5ファインダー類、何から何までアウト。
いまさら設計変更しても売れないものは、全部生産完了。最後は、廃棄処分とあいなりました。

じゃ、今いくらかマニュアルフォーカスレンズが残っているのでは?ということになりますが、それは全て「エコガラス」化されています。理由は売れるから、その用途はアマチュアではなく、産業用途(計測機など)に一定の需要があるからのようです。

時代はちょうど、フィルムからデジタルに完全移行し始めた時期。
あまりにもタイミングが合いすぎたようです。
RoHS指令が無ければ、もう少しゆっくりと銀塩関連商品は終息したかなと思う次第です。


※RoHS指令には除外項目があり、先の中小企業基盤整備機構ウェブサイトの解説にも“光学・フィルターガラス中の鉛とカドミウム”が掲載されていますが、施行直前あるいは施行後にも適用除外が次々と官報で告示されているとも書かれてあり、そのあたりの時系列に対するメーカー側の意思決定は不明です。カメラの八百富さんの記事には“レンズは別に鉛を使わなくても代替が可能ということで規制対象品となり、域内に持ち込めなくなったわけです。”という一文もあります。


ともかく、RoHS指令はカメラメーカー各社にかつてない変革を迫ったことは確かです。従来製品を設計変更して売り続けるか、いさぎよくやめてしまうか。そんな状況で京セラが向き合ったのは、時代に取り残された旧CONTAXシステムと、その代替になるはずだったCONTAX Nシステムの不振でした。

ネット上の情報を見ると、RoHS指令の告知(予告)が2003年、CONTAX 645/Nシステムの新製品は2002年を最後に途絶え、2005年に京セラのカメラ事業撤退発表、2006年にRoHS指令の実施。見事にリンクしていると思います。

デジカメWatch
京セラ、CONTAX事業を2005年中に終了
~デジタル、銀塩共に国内市場撤退へ
https://dc.watch.impress.co.jp/cda/other/2005/04/12/1361.html

これまでの流れを振り返れば、RoHS指令はカメラ事業撤退のきっかけのひとつに過ぎなかったでしょうし、2004年まで新製品を発売していたコンパクトデジタルカメラに関しては単純に販売不振が原因とされています。しかし、プロまたはハイアマチュア向けとして、あれだけ充実したシステムを築きあげ、きちんと受け入れられつつあったCONTAX 645まで辞めてしまう不自然さは、RoHS指令による再設計の重みがカメラ事業全体にのしかかっていたと考えると納得がいきます。

【重要な追記】
アサヒカメラによると、Carl Zeissと京セラ(当初はYASHICA)の契約は8年刻みだったようで、最初の契約が締結された1974年(1973年?)から計算すると、ちょうど2005-2006年が節目となります。この時期にCONTAXを終了させた直接の原因は8年契約の更新期限であり、そのタイミングにカメラ事業の販売不振をはじめとした複数のマイナス要因が重なっていたとあれば、むしろ京セラCONTAXが生き残る確率のほうが低かったといえるのかもしれません。この京セラ側の意向を感じとり、Carl Zeiss側があらかじめ保険をかけたのが、2004年に発表されたCOSINAとの提携(Mマウントレンズの展開)だったのでしょう。


4、未来の空想


CONTAXカメラ事業は終わりました。しかし、あの時、京セラにどんな道があったのでしょうか。

旧CONTAXレンズを継続してAPSデジタルカメラでその場をしのいだとしても、看板である大口径レンズは硝材の置きかえが必要だったでしょうし、CONTAX Nに引き継ぐはずだったシステムを存続させる後戻りが企業として正しい判断とも思えません。仮にRoHS指令の影響がなかったとしても、CANON、NIKONの二大メーカー以外は苦難の道をたどっていますし、LEICAはレンジファインダーという唯一無二のものだからこそハイブランド化に成功したのかもしれません。MINOLTAはKONICAと経営統合後、わずか数年でSONYにカメラ事業を引き渡し、PENTAXは縮小の一途、OLYMPUSは新規に立ち上げたフォーサーズさえ成功しませんでした。

カメラが儲かると誰が言ったのでしょうか。シェア争いに敗れたメーカーは電子基板のサンドイッチといえるような単純構造のミラーレスになってようやく息を吹き返しはじめたのです。レンズの生産先を失ったZEISSは次のパートナーにCOSINAを選び、今ではMFの金属製交換レンズは宝石のように素晴らしいものだというズーム時代とは逆の価値観も根づいていますが、それは小規模のレンズ専売メーカーだからこそできたことなのかもしれません。


写真はレンズで決まる。


CONTAX RTS発売当時のキャッチコピーは高画素時代にますますその意味を強めていますし、フィルムで味わった撮る喜びは今もってよき思い出として色褪せていません。マウントアダプターによって生き続けるCONTAXレンズ群はわたしたちに極上の手ざわりを与えながら、今日も世界中の景色を写真に残していることでしょう。

そして最後に、なにも知らない若造にいつもていねいに接してくださった京セラサービスステーションの皆様に、感謝の言葉を。